鰹節の歴史年表
年代 | 事項 |
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【縄文文化時代】 | |
◎カツオ遺骨の発見 | |
4千~2千年前 | 鹿児島県市来貝塚 |
【弥生文化時代】 | |
紀元前3百~紀元3百年 | 疑似餌使用のカツオ釣りが始められた(推定) 米食が始まり副食にカツオも用いられた |
【古墳文化時代】 | |
◎竪魚の時代へ | |
4百年代後半 | 干しカツオが造られ、竪魚煎汁が調味料となる(推定) |
【飛鳥・白鳳時代】 | |
◎竪魚類の貢納へ | |
701年 | 「大宝律令」成る。その賦役令により、竪魚、煮竪魚、竪魚煎汁が重要貢納品として指定される |
【奈良時代】 | |
718(養老2)年 | 「養老律令」成る。大宝令同様にカツオ製品が重要貢納品に指定される。 |
737(天平9)年 | 聖武天皇、魚類の食用を禁じたが、「堅魚之類煎否皆好」と令す(『続日本記』) |
【平安時代】 | |
927(延長5)年 | 「堅魚」を貢納する10カ国名が明らかにされた 志摩、駿河、伊豆、相模、安房、紀伊、阿波、土佐、豊後、日向(『延喜式』) |
平安前期 | 『和名抄』の調味料の部で堅魚煎汁が紹介される |
【鎌倉時代】 | |
鎌倉前期 | 『厨房類記』に「鰹」(干しカツオ)、「鰹煎汁」の料理が出る |
【室町時代】 | |
◎鰹節の創案 | |
1479(延徳元)年 | 『四条流包丁書』に「花鰹」の文字が見られる |
1513(永正10)年 | 「種子島家譜」に「かつをぶし、叩煎」が見られる |
【安土・桃山時代】 | |
1567年~1639年 (永禄6~寛永16年) | ポルトガル船はこの間に多くの鰹節を輸出した(『長崎の唐人貿易』による) |
1591年以降(文禄、慶長) | 土佐の国守、長宗我部氏秀吉に鰹節献上(伝承) |
【江戸時代】 | |
1612年(慶長17年) | 高知城下で土佐藩によるカツオと鰹節値段が公定されていた |
1614~1615年 (慶長19~元和元年) | 大阪冬夏の陣に際し、土佐の山内氏、徳川家康に鰹節献上、駿府奉行より家康へ生鰹箇献上 |
1634年(寛永11年) | 徳川家康が大阪へ下向したとき、大阪三郷中から御台所へ御酒3荷、鰹節3箱(2百入)献上 |
1643年(寛永20年) | 紀州徳川家より、延命酒漬鰹節を将軍御台所へ献上 |
同 年 | 『料理物語』に鰹節使用料理「だし」の語を多く見る |
1651(慶安4)年 | 伊予の宇和島藩幕府へ鰹節献上 |
1655(明暦2)年 | 土佐2代藩主山内忠義江戸の鰹節相場につき、国元へ書簡を送る |
同 年 | 土佐藩士淡輪四郎兵衛下灘一帯の鰹節生産状況視察 |
1647年~1663年 (正保4~寛文2年) | この間七戸城主(南部藩支城)だった七戸隼人は宮古の知人に鰹節とたたきの製造を依頼する |
1673(延宝元)年 | 土佐の清水浦で大火、再起の為に紀州の「釣溜船十数艘」を呼び寄せた 印南の甚太郎が宇佐で(亀蔵に)鰹節製法を教えたのはこのころから |
1684年~1703年 (貞享元禄のころ) | 陸前国大島に鰹節製造職人として印南漁民4名がいた 二代目甚太郎は土佐漁民と共同で鰹節改良に成功(カビ防止対策) |
1697(元禄10)年 | 「本朝食艦」にはじめて鰹節の特質、製法、産地等が詳説された。土佐、紀伊の産を上品と記し、続いて阿波、伊勢、志摩、遠江、駿河、伊豆、相模、豊後、日向をあげている |
1698(元禄11)年 | 長崎貿易輸出品目に鰹節の俵詰めが見られる |
1699(元禄12)年 | にんべん開祖、江戸の四日市で鰹節と塩乾物を商う |
◎カビ付け法の導入 | |
1704(宝永4)年 | 二代目甚太郎印南にて大津波の為に死亡(智究願海居士) |
同年 | 紀州印南の森弥兵衛、薩摩の鹿籠に移住し、鰹節製法を教える |
1711(正徳元)年 | 唐船輸出品目に鰹節9連40斤(1本280グラム) |
1722(享保8)年 | 坊津港に唐物崩れの変事生じ、大型船鹿籠港に逃亡 |
1767(明和4)年 | 枕崎水主337人、総船170艘、専らカツオを釣り、節に整う(鹿籠名数記) |
1772~1780年(安永年間) | 奥州の塩カツオ、鰹節は江戸俵物として盛んに江戸へ送られた |
1772~1788年 (安永~天明年間) | 鰹節売買の全盛期到来 |
1781~1788年(天明年間) | 紀州印南の鰹節職人、通称土佐の与市、安房の千倉へ渡り、土佐式製法を教える |
1781~1800年 (天明寛政年間) | 『譚海』『一話一言補遺』にカビ付け製法の解説が載る |
1789~1800年(寛政年間) | 『日本山海名産図会』に鰹節製法の説明ならびにカツオを獲る国と産地(下記)が見える カツオを獲る国・・・ 土佐、阿波、紀伊、伊予、駿河、伊豆、相模、安房、上総、陸奥、 薩摩、此外諸州 鰹節産地・・・ 土佐、薩摩、阿波、伊勢、駿河、伊豆、相模、安房、上総、奥州 |
同年間 | 「大成武艦」に鰹節を将軍家に献上した藩名載る 和歌山藩、鹿児島藩、土佐藩、佐伯(豊後)藩、徳島藩、秋田藩、 高崎藩(鰹塩辛) |
同年間 | 江戸で町屋敷の売買に際して、町内の家持1人に鰹節10本を配るしきたりの廃止令 |
1801(享和元)年 | 土佐の与市、伊豆の安良里に渡り、土佐節製法伝授 |
1803(享和3)年 | 『新撰包丁梯』に土佐、薩摩、紀州の順に製品の質を示している。薩摩節が熊野節を追い抜いている |
1716~1841年 (享保~天保年間) | 18世紀の8代将軍吉宗から11代将軍家斉当時までにカツオ、鰹節使用の料理書が最も多く発行されている |
1804~1829年 (文化文政年間) | このころカビ付け工程を含めた鰹節製法は土佐、薩摩、伊豆で発達していた |
1809(文化6)年 | 土佐藩鰹船の舟子を17名に制限、賃銀も肯定、鰹節の上納仕法厳しくなる |
1813(文化10)年 | 土佐与市安房へ戻る |
1804~1817年(文化年間) | 土佐国最大のカツオ業者山城屋の全盛時代、印南の鰹節職人久保田与三右衛門が山城屋で貢献した時代 |
1820(文政2)年 | 御前崎の六右衛門は志摩国の崎島の初治郎を招き相良新町に鰹節製作所を開く |
1822(文政4)年 | 坊津の製造家、それまで鹿籠商人に売っていたが、販路を直接大阪に開く |
1823(文政5)年 | 鰹節番付が版行される。番付に載った国名(藩名を含む) 土佐、薩摩、紀伊、阿波、日向、伊豆、安房、駿河、岩城、上総、 水戸、常陸、仙台、南部、肥前の五島、肥後の牛深 |
1824(文政6)年 | 薩摩国坊のカツオ船11艘、泊6艘 |
1825(文政7)年 | 土佐藩焼上黒節の売買を禁じる、鰹節の無断売買厳禁 |
1824~1826年 (文政6~8年) | 鹿籠と坊泊で餌雑魚場争い(雑魚公事) |
1829(文政12)年以前 | 薩摩の小湊浦は「異国船遠見」の役目を兼ねて20余人のカツオ船建造を許される |
1834(天保5)年 | 鰹節が塩干魚と共に菱垣廻船、樽廻船両積となる |
1838(天保9)年 | 坊津鰹船23艘鰹節の生産年々100万本以上、イシムロ帆を木綿帆に |
1843(天保14)年 | 『三国名勝図会』に薩摩藩領のカツオ浦19、鰹節産地12、煎汁産地2、塩辛産地2が見られ、「鰹節は七島と屋久を最上とす」とある |
1844~1847年 (弘化元~4年) | 伊豆の田子より節職人若五郎、大五郎が安房へ指導に |
1848(嘉永元)年 | 安房の吉田与平、気仙沼へ行き鰹節製法指導 |
1854~1859年(安政年間) | 熊吉房総の各地に指導、製法夷隅郡、海上郡に及ぶ |
【明治時代】 | |
明治元年 | 大阪の塩干魚鰹節問屋数71軒、仲買数158軒 |
明治2年 | 伊豆の人、石田為吉、八尺幅のカツオ船で伊豆大島へ |
◎本枯節の出現 |