枕崎に開花した土佐式製法
土佐、薩摩を名産とする
枕崎港の西方にあって低い峠越えに隣接している坊津でカツオ漁業のはじめられたのは、土州カツオ船が来て操業したのに刺激されたからだとされる。土州船は宝暦のころには跡を絶ったというが、享保の唐物崩れ以前は密貿易の盛んな商港だったのだから、土州船の大挙出漁は享保8年(1723)以後のことになるであろう。
それから宝暦初年(1751)までは20数年しか経てないから、短年月の出漁であった。
紀州の熊野式新漁法が土佐の清水七浦漁民に伝えられたのは、遅くても慶安末年(1735)である。享保のころともなれば、釣り溜漁法に習熟した土州船団が漁場をしだいに拡大し、その一部がついに坊津港まで出漁してきたとしても不思議ではない。
しかし土州船は、薩摩藩の許可なしに、坊津港を居浦とすることはできない。
おそらく、唐物崩れにより一寒村に転落してしまった坊津復興の一手段として、薩摩藩の諒承の下に残存する地元の有志が呼び寄せたものであろう。出漁期間が短期間で終わったのは、地元漁民が熊野式新漁法を十分に習得してしまったので、土州船が無用になったからではないか。
坊津に隣る漁港、泊浦については熊野式新漁法が伝播したものかどうかは明らかでない。一説に明暦のころ(1655~57)、同浦の郷土、早水吉右衛門が宇治島、草垣島を支配してからカツオ漁業を開いたのが最初だというが、『坊津郷土誌』は彼がカツオ漁を専業としたか否かは不明だとしている。他の説では同浦の赤崎市左衛門が天和貞享のころ(1681~87)、カツオ船2肢を造って始業したが、いつごろ廃業したかはわからないともいわれる。
どちらにしろ、早期の開業は失敗しており、それ以後に成功したものらしい。享保年間以前には、藩の御用物として「鰹」を上納している。同じく享保以前からカツオ漁業が開始されたと伝えられているところに、野間半島に近い片浦がある。
片浦の東方の漁港、小湊や、泊浦と片浦の中間にある天然の良港、久志、秋目等も(片浦や坊津、泊浦ではじめられているのだから)、同じころから開始した可能性がある。
薩摩節は正徳3年(1712)版『和漢三才図会』の鰹節産地の中にはまだ名も出て来ない、京坂地方でその名が知られたのは、享保8年(1722)の唐物崩れが大きなきっかけとなって、薩摩半島に鰹節製法がひろまって後のことである。
宝暦9年(1759)には、大阪に薩州問屋が創立され、定問屋株7軒、小間屋17軒もが出現して、薩摩藩が領内産物の販売に力を入れだしている。
薩摩藩の蔵屋敷は、前記のとおり土佐藩の蔵屋敷の近くに位置していた上に、土佐節も薩摩節も大阪市内中の同じ鰹節問屋に売られたのだから、弥兵衛以後も進歩していた土佐節の情報を入手して改良に役立てたことであろう。
薩摩節の製造は、明和、安永のころ(1764~80)には活発化して、品質も急速に向上していった。
寛政年間(1789~1800)版の『日本山海名産図会』には、「土佐、薩摩を名産とする」と書かれるほどの高い評価を得ており、『寛政武鑑』によれば、薩摩藩は鰹節を幕府への献上品としている。
享保のころまでは全国的には全く知られていなかったが、30~40年の沈潜期間を経た明和以後となってようやく浮上し、さらに約30年後の寛政年間となると、突如として全国一流品にのし上がっていたことが明らかにされたのである。
これは享保以後寛政に至るまでの間に、先進地の南西諸島はむろんのこと、土佐式製法を受け入れて続々と出現した薩摩半島の産地までもが、薩摩藩の奨励と自助努力の積み重ねによって、独特の味わいをもつ薩摩節を創りだすに至ったからである。
さらに文化文政期を迎えるころにはますます工夫が進んで、土佐節に次ぐ第2位の座を固めてしまうのである。明治時代を迎え、はじめて国々の製法が比較できるようになったとき、枕崎、坊津の製法は、最も土佐~印南式に近いことが明らかにされた。
その遠因が、森弥兵衛に求められることはいうまでもない。
坊津は本港に属し、鹿龍4村は支藩の喜入氏の城下にあり、江戸後期になると両地はカツオ餌魚の漁場をめぐって激しい争いを繰り広げている。
文政8年に漁場争いは決着するから、その頃より双方の技術交流が進んだことであろう。
明治を迎えたころには、漁法、製法が同一になっていたことが明らかにされている。