唐物崩れ
驚天動地の一大事件
現在枕崎は、薩摩半島の南端。西寄りにある半島第一の都市であり、鯉のぼりの代わりに鯉のぼりを上げる程に、鰹節に明け暮れする町となっている。弥兵衛が来たころは、鹿籠4村の内に含まれ、近くには景勝の立神崎を控える、美しい白砂の浜を持つ湾入に面していたが、湾口は大きく南に開け、天然の漁港とはいい難く、また黒潮は洋上はるかかなたを流れ、カツオ漁には縁が薄かった。ただしこの村には鰹節に関心を寄せていた、薩摩藩家老、喜入氏の館があった。
弥兵衛が枕崎に伝えたと口伝のあるのは鰹節製法だが、彼は土佐向け出稼ぎ漁の本場ともいえる印南の人だから、当然のことながら熊野式漁法も伝えたに違いない。後に記すように坊津の唐物崩れのさい、多くの大船を受け入れたのも、カツオ船としての利用を考えたことは明らかである。
名伯楽あっての名馬である。弥兵衛は喜入久亮という、鰹節の真価を理解する英明の保護者を得て、その名人芸を鹿籠浦に活かすことができた。喜入久亮は鰹節に強い関心を抱いた人で、自作の連歌集『萬句賀親乾』(享保7年)で、カツオや鰹節についていくつかの和歌を示している。
梓弓陸奥重代の馬揃へ
吸物すれどなき鰹節 (陸奥は、島津氏)
順風に湊賑はふ船備え
いよいよ初鰹価万貫
享保8年(1722)、それまで密貿易で栄えていた坊津港に「唐物崩れ」といわれる驚天動地の一大事件が発生し、坊津港から多数の船が枕崎港に逃げこんだ。唐物崩れとは、下のような事件を指す。坊津は薩摩半島の西南端に位置する天然の良港である。鑑真和上が7度目の航海で上陸できたのもこの浦であり、遣唐使が揚子江へ向けて、東シナ海を一挙に横断する為にもこの浦は使われている。帆船の航海の場合には風向と潮流の関係で、唐との往還に地の利を得た港であり、別名を入唐道といわれたほどである。
時代は降って文明6年(1474)将軍足利義尚は、渡明船の平戸経由を止め、坊津より発するように命じている。島津氏の領する時代となってからは、島津氏久、久豊等が明との通商修交、明船の招致に力を尽くしたので、表玄関となった坊津は繁盛をきわめた。
島津氏は慶長14年琉球国を征服して後は、琉球を通じての対明貿易も盛んにし、琉球船、明船は坊津港を埋める勢だったが、寛永12年(1635)5月20日、幕府は明船の入港を長崎一港に限らせたので、坊津の繁栄に一時はかげりが見えた。
しかし福建を出帆し、あるいは琉球を経由する明船は、風波の難を避けるためにも、薪水食料補給のためにも坊津が便利なために、漂流したなどの口実の下に坊津港へ集まるようになった。
ここに薩摩藩の唐物抜荷(対明密貿易)が、直接にあるいは琉球を経て間接に開始され、坊津港のひそかな繁栄時代が到来するのである。
対明貿易だけでなく、東南アジアとの貿易も行われた模様である。
坊津港に隣接して、同様に湾入の深い良港、泊は、坊津の副港の役割を果たしていた。
慶長年間に、シャム行きの英国船が鰹節を積んで入港したのは、その好例である。
さて坊津港は、幕府の眼をかいくぐる、薩摩藩の密貿易港として栄えていたが、当然に幕府の知るところになった。
貿易船の所有者たちは、縞奮な生活にふけり、安穏の夢をむさぼり続けていたが、享保8年突如として幕府による一斉手入れが強行され、徹底した弾圧にあった。
関係した男たちは行方を明かさず逃げのび、家族と生き別れ、一家離散の憂き目をみる家が続出した。以後坊津は、人影もまばらな一小漁港となってしまうのである。
枕崎港に逃れた密貿易船は、領主喜入氏によって手厚く保護され、大船の所有者は鰹漁、鰹節製造の特権を与えられた。多数の大船の入港は、文字通り「渡りに船」である。
近海のカツオに恵まれていなかった鹿籠浦は、密貿易船をカツオ船に利用して漁場をおそらく黒島方面まで延ばすことができ、大量漁獲、大量製造の端緒をつかんだのであった。
森弥兵衛はそれより7年前の享保元年に死亡しているが、その間に伝授された秘法は充分に根付いて、以後喜入氏によってみごとに開花されていくのである。