明治・大正の薩摩節
鰹節の需要、大いに増す
明治時代に入ると、鰹節の需要は全国に増大し、「鰹節ハ多ク上流社会ノ需要二属シ、農家ノ如キハ日常食料ノ調味ニハ、多ク煮干ノ~組ヲ用ヒ、鰹節ノ如キハ容易二食セザルモノナリシガ、十年以来生計ノ度モ亦夕漸進シテ、随テ人情奪修二傾ムキシヲ以テ節類ノ需要自然二増加シ」と第二回水産博覧会(明治30年)の報告書で述べている通り、山間の僻地にまで進出して行き、鰹節の産額は、当時の水産業の最重要な地位を占めるに至った。
各地に鰹節業が隆盛となると同時に、製法の改良気運が全国的に高揚して来たのもこの時代である。 各地に製造業者の団体が結成されて、これまでの個人的な秘密な製造研究は、公開されることとなった。これによって、団体と団体間の技術の交換を実施するようになり、長所を採り、短所を補われるようになったので、模範的製法は全国に広く行きわたるようになり、製品は急ピッチに向上した。
当時の薩摩節の成果を、水産博覧会の記録によって、見ることにする。
甘美な薩摩節
明治21年、3回内博、鹿児島県の審査評
薩摩節ハ一種特別ノ形容ヲ有シソノ味マタ甘美ナリ。敬二需要、漸次二増加シ、現今二至ッテハ、其ノ販路、各地二拡充シ大イニ好評ヲ博セリ。ヨッテ考フルニソノ需要ハ益々増加スルモ決シテ減少スルコトナカルベシ。
薩摩節二就イテ改良ヲ要スルトコロバ、唯、煮熟、燻乾二注意スルニアリ。
其ノ形状等ニイタッテハ、昔時ヨリ薩摩節トシテ一種特別ノ風ヲ世二知ラレタルヲ似デ、永クコノ固有ノ形状ヲ維持シ、世人ヲシテ一目、薩摩節タルヲ知ラシメ、返ッテ一種ノ商標トナスニシカズ。
徒二時流ヲ追ィ、唯、外観ヲ飾リテ臭味ヲ損フ如キ拙策ヲ徒ルベカラズ。
枕崎・坊ノ津は最も有名な産地
明治30年、第二回水産博
鹿児島県ノ節ハ昨今、改良ノ気運二向ヒシ結果トシテコノ回ハ、コレマデニナキ多数ノ出品ヲナシ、カツ良品モマタ、坊之津、枕崎ハ最モ著名ノ産地ニシテ、コノ回ノ出品ハ品質佳良、ヨクー定セリ。
コトニ森栄四郎ノ鰹節ハ純粋ノ鹿児島節ノ風格ヲ備工、乾燥、カビ付ケ等二注意シ、而シテ手入ヲ怠ラザルガタメニ秋冬ノ候トイエドモ少シモ形色ヲ失ハズ。
又、屋久島ノ羽生休太郎ノ鰹節ハ適度ノ改良ヲ加工、形色鮮明ニシテ世ノ需要二適セリ。
本県ノ節ハ一種素朴ヲ以テ商標トスレバ、漫二地方ノ節、倣フベカラズ。ヨロシク、取長捨短、局部ノ改良ヲナスガ最モ緊要ナリ。
最モ注意スべキハ近頃、本県ノ節ハ日乾ヲ長クシテ媒乾ヲ省クタメ二、常二乾燥不充分ノ評アリ。
敬二貯蔵中、減量甚ダシク、粉虫ヲ発生スルコトアリ。
節ノ製造上、最モ必要ナルハ乾燥ニアレバ、ヨロシク感銘スベシ。
素朴な薩摩節
五回内国博、審査評
鹿児島県ハ百七十一点ヲ出品セリ。本県ハ川辺、熊毛二郡、鰹漁業最モ盛ニシテ、節ノ産出モマタ多シ。
殊二屋久島節ハ都市二称セラレタルモノニシテ、薩摩節ハ一種素朴ノ風格ヲ備へ、少シモ他ニオモネラズ、蛇然、超出シ、容易二薩摩節ノ風格ヲ判別スルコトヲ得、然ルニ近来一般二改良ノ声、サクサクタルニ促サレ、自家ノ改良ヲ企テシモ、薩摩節ハ他地方ノ改良トハ少シク趣ヲ異ニシ、タダ煮熟、乾燥ヲ主トシテ形容ヲ動カサズ。
多少削リヲ丁寧ニスベシ。
今回、出品ノ如キ屋久島節ニパスコシク修飾二過ギテ固有ノ真相ヲ失ハントスルモノアリ。
改良ニハヨロシク注意スベシ。
薩摩節の風格
薩摩節は、第一回水産博以来、成績は常に最高位、もしくはそれに準ずる高位を受賞し、第三回内国博、第2回水産博の審査評も一致して受賛している。
賛辞の共通しているところは「薩摩節は一種独特の素朴な形容を持っており、それが商標としての役割をはたしている。また、特有の甘美な味をもって各地に広く販路をもち高い評価を得ている」というものである。
それ故に「いたずらに時流におもねり、他をまねて外観を変えたり、真の持ち味を損なうような改革を行うことは拙策である」とも忠告している。
製造上注意すべき点としては煮熟と乾燥をあげている。
が、それほど厳しい調子はみられない。
明治のころには、半島部の製品を地節、屋久島のそれを屋久節と呼んでいた。屋久節はもともと、かびつけを行わなかった。
これは南西諸島に共通した伝統的な製法である。屋久節が文政の鰹節番付で西のナンバー1に選ばれているところからみると、江戸末期までは全国的にカビ付け工程を重視していなかったのではないと考えられる。
薩摩半島部の雄、枕崎や坊之津の地節は、土佐式のかびつけ法を実施していたが、この方法も伊豆節に比べれば劣っていた。
二回水産博で1等を受賞した西南方村の森の製品は、乾燥とかびつけ等に注意して手入れを行っているために秋冬になっても形色が変わらぬと審査評で受賛されている。
このとき、屋久節の羽生は改良の効果を讃えられはしたが、進歩2等賞を得るにとどまった。
新鮮な原料で製造される屋久節が新鮮な原料を得難い地節より劣ったのは、このころ、本枯節を要望する東京市場が市況の動向を左右するようになってきたからである。
鰹節製法書も、伊豆式かびつけを取上げるようになって乾付節とよばれた屋久節にも改良を必要とする時代が到来したのであった。
後述する通り、伝統に安んじていた薩摩節産地は、明治30年前後から後進産地に追い抜かれてしまうのである。
明治16年、枕崎村の鰹節、最高賞
江戸後期、文政(1818~1829)の鰹節番付による名産地は、屋久島や黒島などの南西諸島と薩摩半島の枕崎、坊、泊、野間半島北岸の片浦、小湊などであった。同じころ鰹漁を行った浦は全県的に広く点在していたから、実際には鰹番付に示されたより多くの産地があったものとみられる。
明治時代に入ってもこの傾向に変わりはなく、多数の産地があったが、各種博覧会で受賞者の出た名産地は限られており、鰹節番付のころとほとんど同じである。
明治16年の第1回水産博覧会では、鰹節部門において最高の2等受賞者が枕崎村から出たはか、坊、泊両村や片浦村、さらにそのはるか北方の羽島村から、3、4等受賞者を出している。
ここに屋久島の名が見られないのは出品がなかったからで、以後の博覧会には常に受賞している。
明治30年の第2回水産博受賞地と受賞者数は、この博覧会への出品数も多かっただけに、前回よりはるかに増えているが、そこに示された鰹節製造の盛業地(名産地)は、文政の鰹節番付に示されたものと大差はない。
上に示されるのは出品地ではなく受賞地だけだから、他県の場合と同様に全製造地の状況は明らかではないが、盛業地あるいは主産地を知ることはできる。(地名の右の数字は受賞者数)
1等賞 西南方村 1
2等賞 東南方村(枕崎) 6 下屋久村 2
3等賞 西南方村 7 上屋久村 4(内 煎脂 1 荒粕 1)
下屋久村 4(内 煎脂 1 荒粕 1)
加世田村 1 内之浦 1 東南方村 4
褒状 西南方村 3(内 腹皮 1) 東南方村 7
上屋久村 3 下屋久村 2 内之浦 1
このうち、鰹節に限り、郡村別に受賞者数をまとめると、下記のとおりとなる。
川辺郡 東南方村17 西南方村 11 西加世田村 1
熊毛郡 上屋久村 7 下屋久村 6
肝属郡 内之浦 1
これによれば、鰹節の盛業地は半島部では、現在の枕崎と坊津町、西南諸島では屋久島の北部(一湊など)と南部(粟生)、合計2地区、4産地に絞られてくる。
この受賞によって示された盛業地は、後に記す明治末年の生産高の多い主要産地とほぼ一致している。
遠く大隈半島東北岸の内之浦が褒状を得ているが、これは宮崎県の主産地油津などの影響を受けた小産地である。
なお、屋久島の各村が主として、煎脂で褒状を得ているのは、古くから南西諸島の人々が、これを調味料に使い、特産地としてきた表れである。
現在でも屋久島には、その製造業者が2、3あり、山川の業者も同島出身者である。さば節の受賞者は3か村から出ているに過ぎないが、実際の製造量は鰹節を上回っていた。
鰹節製造は川辺部と熊毛郡に集中しているが、サバ節の製造は後に記す4郡にまたがり、盛況を呈していたのであった。
鰹節検査所を設ける
明治32年、鹿児島県は主要産地に検査所を設け、同42年には全県的に増設した。
明治42年における各出張所別の鰹節、雑節検査数量は下の通りである。
出張所所在地が、必ずしも、製造村名のすべてを表わすわけではないが、奄美大島は別として、ほぼ、当時の県内製造地の状況が一望できるだろう。
※ 数量の左側は鰹節、()は雑節製造貫数である。
揖宿郡 福 元 2,141(26,023)
川 尻 1,360(12,267)
石 垣 (33,251)
川辺郡 南別府 207(16,878)
枕 崎 58,095(21,867)
坊 21,683(2,935)
久 志 3,255(3,714)
秋 目 1,115(2,172)
小 浦 3,649(297)
野間池 13,994(2,929)
唐人仁原 185(681)
薩摩郡 里 出 (15,594)
中 甑 63(18,571)
藺牟田 337(15,668)
手 内 582
青 瀬 (6,851)
熊毛郡 宮之浦 762(5,592)
一 湊 14,078(23,324)
永 田 3,070(59)
居ノ間 2,833
口永良部 4,826(200)
栗 生 7,316(16)
この中から5,000貫以上の検査を実施した出張所を鰹節の部でみると、大量検査出張所所在地、つまり大産地は、第二回水産博の高位受賞地と一致している。
雑節の場合は、鰹節の大産地と一致するのは、枕崎と一頭だけだが、鰹節の製造が少ないところでも雑節の産出の方は目立って多い滑々が五郡にもまたがっている。
産出高合計でも鰹節を10万貢以上も上回っている。
金額的には低くても多くの浦を潤していたものとみている。
鰹節 川辺郡 枕崎 坊 野間池
熊毛郡 一湊 粟生 口永良部
雑節 揖宿郡 石垣 福元 川尻
川辺郡 枕崎 南別府
薩摩郡 中甑 蘭牟田 里出
肝属郡 伊座敷 大泊
熊毛郡 一湊 宮之浦
薩摩節の改良
明治45年4月、鹿児島県節類水産組合は、会報「さつまぶし」という分厚い冊子を発行した。
これは、さまざまな角度から、全国的、全県的な鰹節業の実態を分析することにより、先年来、改良の道程をたどっていた県下の全鰹節業者に対し、なお一層の奮起を促すとともに新しい経営の指針にさせようとの意図の込められた出版であった。
この本によれば、明治20年までは土佐節、薩摩節を除く他県節は、他に見るべきものは無かったが、その後、鰹節価格の高騰など嘩々の原因により、静岡、千葉、茨城の諸県は、官民一体となり、製造法の改良に腐心して多大の成果を上げていった。
その結果、独り鹿児島県が取り残されることになった。
明治18年ごろ、薩摩節は土佐節を匹敵し、静岡節ははるかに下位にあったが、その後、土佐節、静岡節の改良が進んで、22年になると、土佐節が第1位で、静岡節、薩摩節がともに2位に並んだ。
28年ごろには薩摩節は、土佐節、静岡節に全く引離されてしまった。
この期になって薩摩節業界は、ようやく、あせりの色を濃くし、改良方法を模索し始めた。薩摩節が引き離された原因は多々ある。
第1は、漁獲地周辺に静岡県のような生カツオや生利節の市場がなかったことである。
そのために生魚は、すべて鰹節に製造せねばならず、大量に取れた場合などは粗製濫造に流れがちで、ついには、それが習わしとなってしまった。
第2は、地節の場合だが、漁場が遠いので、沖イデ、島イデなどの方法を選ばねばならず、煮熟の段階で粗悪品の発生する素地ができていたことである。
第3は、漁製分離に立ち遅れたことである。江戸時代から漁船主が納屋主を兼ねていて、漁獲を偏重し、製造を軽視する風潮があった。
釣子が捕獲して帰ると製造人に早変わりして、原料を水揚げし、生切から煮熟まで行う。
後は納屋番と称する二人ばかりの製造人を残して、また、漁に出掛けるという繰り返しであった。
鰹釣で疲れた釣子が製造人を兼ねるとなれば、いきおい早く仕上げることばかりを考えるだけで、製法の改善や品質の向上等にまで気の回るはずもなかったのである。
又、漁船主としては、造船には必要経費と考えて資金を投ずるが、造船資金で手一杯だったこともあって、納屋の施設、設備はなるべく従来のままで間に合わせようとする傾向があった。
製造に長い日数を掛けたり、長期間にわたって製品を持ちこたえる余力はなく、素早く売り払う必要があった。
第4は、官民一体となった改良への立ち遅れであり、これが他県と比較した場合の大きな原因であった。
県が改良に着手した時期は静岡県よtり少なくても十年は遅かった。
この改良年譜を、会報「さつまぶし」によって追ってみる。
明治29年 静岡県より実業教師を招き、3年間製法の長所を習得させた。
明治32年 鰹節製造販売営業取締規則を制定し、製品の品質統一と向上の
ための検査所を設置する事とした。
明治33年 節類品評会を開催した。
重要物産同業組合法により、鰹節同業組合を創立した。
検査は鰹節だけでなく、しび節・さば節等の雑節にも及ぼすように
なった。
明治34年 鹿児島市、川辺郡はか4郡10か所に支部を設け、製品の周到な
検査により失墜した薩摩節の信用回復を計ろうとしたが、諸般の
事情で、はかばかしい効果を生まなかった。
明治35年 前年に公布された漁業法に基づき、鹿児島県鰹節水産組合に組
織替えした。
明治42年 第2回鹿児島県節類他、3品評会を開催した。
この年初めて県費3,000円の補助を得ること
ができて、検査出張所を節類の各重要産地に置いた。
出張所数は実に25か所に上がった。
(名称と検査数量は前述)
この結果、薩摩節の信用は断然高まり、鹿児島市場における取引は、日一日と活気づき、販路は著しく拡張されるようになった。
このために大阪・東京など中央市場で品薄現象を起こし、価格が高騰した
ばかりでなく、これまでのように漁獲増、生産増によって市価が下がるという悪弊もなくなった。
薩摩節、名声を回復す
明治43年の組合(鹿児島県鰹節水産組合)報告には、大略下の通りに述べてある。
組合員の一致した意見として、薩摩節本来の風格は維持するが、製法と設備については、「ほとんど見るに足るべきもの無きもって、改良は最も急務なり」という結論となった。
そして、「営業者十数年来の安眠を破り、改良の寸時もゆるがせにできぬこと」を悟り、屋久島の如きは、競争的に製品の品質改良に努めた結果、本年は土佐節、焼津節と比べても、ほとんど劣らぬ製品ができた。
また、地節産地でも品質を劣悪にしていた「沖煮」を止めたり、口永良部島に仮製造所を設ける者が出て来た。
製法の部分的改良も着々と進められたが、まだまだ不充分な状態であった。
改良の成果を明治42年の価格表に見よう。
()は前年度である。
最高値 | 最底値 | |
土佐節 | 63円(64円) | 38円(46円) |
静岡節 | 63円(64円) | 38円(40円) |
薩摩節 | 63円(60円) | 24円(27円) |
上の表を見ると、土佐節と静岡節は最高値、最低値、つまり上級品、下級品ともに全く同格となっている。
薩摩節は明治22~41年まで、静岡節に差をつけられていたのだが、同42年になってついに上級品では同格にまで漕ぎつけた。
しかし、下級品になると、依然として大差をつけられていた。
改良の余地はまだまだ多分にあったのである。
明治44年には、組合は、高知県と静岡県の先進産地に視察団を送り、鰹漁業と鰹節の製造から販売にいたるまで実に詳細な報告書を作成させている。
これらを含めて改良は主として焼津式によることになった。
その改良製法とは、身卸しにおいては、薩摩型の風格を残し、煮熟、燻乾は焼津が土佐から学んだ方法により、かびつけ法は、焼津が伊豆式を導入して、更に発展させた方法を採用した・ものである。
鰹節の先進地、土佐、伊豆、焼津の製法はこのころの薩摩節改良において集大成されようとした感がある。
多少は遅きに失したが、鹿児島県鰹節業界、官民一体となっての努力は、明治末年になってようやく実を結び始めたのである。
その成果がよく現れたのは、大正5年に開かれた海事水産博覧会である。このとき、金 銀銅(1、2、3等)賞の受賞者数では、静岡・高知県を上回り、さらに褒状まで加えれば、両県をかなり引き離すほどの好成績を収めている。薩摩節は、ここに再び既往の名声を回復したのである。
また、出品人数で両県と比較すれば、本県は圧倒的に多く、この博覧会に賭けた人々の熱意、引いては鰹節製造に燃やした意欲が感じられる。
ただし、出品者中の受賞者の割合では、静岡、高知両県が約5割に達しているのに対し、本県は3割程度に止まり、大きく差をつけられている。
これは、乾付け節一裸節の中央市場に於ける評価が依然として低かったからである。
3県の海事水産博覧会 受賞者数(大正5年)
県名 | 名誉章 | 金賞 | 銀賞 | 銅賞 | 褒状 | 出品数 |
静岡 | 1 | 2 | 11 | 11 | 4 | 60 |
高知 | 0 | 1 | 4 | 4 | 1 | 19 |
鹿児島 | 0 | 1 | 8 | 8 | 21 | 143 |
この博覧会における県下の産地別受賞者は下表の通りである。これによれば、優良品を産したのは、川辺郡の東南方村枕崎と西南方村坊、東加世田村片浦、熊毛郡上屋久村一湊、下屋久村粟生など、古く
からの産地である。ただ1人だけの出品だが、山川村が、ここに名を見せたのが注目される。
村名 | 金賞 | 銀賞 | 銅賞 | 褒状 | 賞無し | 出品数 |
東南方 | 1 | 3 | 5 | 5 | 17 | 31 |
西南方 | 3 | 1 | 14 | 17 | ||
東加世田 | 1 | 1 | 2 | |||
西加世田 | 2 | 2 | ||||
山川 | 1 | 1 | ||||
上屋久 | 1 | 1 | 3 | 6 | 25 | 36 |
下屋久 | 2 | 3 | 3 | 32 | 40 | |
鎮西 | 1 | 1 | 1 | 4 | 7 | |
名瀬 | 1 | 2 | 1 | 2 | 6 | |
金久 | 1 | 1 | 1 | 3 | ||
焼内 | 1 | 5 | 3 | 1 | 10 | |
鹿児島市 | 11 | 11 |
乾燥装置の新工夫、成功す -大正10年ごろ 枕崎などで-
鹿児島県の鰹節製法改良は、静岡県などに比べれば、約10年は遅れて始められていたが、明治40年代から大正の半ばにかけて着実に効果を上げていった。
官民一体となり水産組合を設けて技術伝習をたびたび行ない、勧業銀行から低利の資金(年利7分7厘)を借り入れる道を開き、諸般の設備の拡充、改良を図ったのである。
それでもなお、工場の新改築まで心がける業者は少なかったが、枕崎などでは、大正10年前後から、製造の要点である乾燥装置の新工夫に重点をおいて成功した結果、多くの業者が工場の新築にふみきり、それらの完成とともに廃棄物処理を兼ねて、肥料製造場を町外に設け、製氷事業を始めるなど関係事業
がつぎつぎに成立し、旧態は一新されて行った。
大正12年出版の「鰹節研究」(農商務省水産講習所)の中に、鹿児島県の部において、山本祥吉は「現今、鰹節製造界における二大設備は、本県下枕崎その他に築造せられたる多数の製造、殊にその乾燥装置と静岡県下、焼津町における鰹節倉庫なるべし」と特筆している。
枕崎において本県当事者の考案になる乾燥装置は多年の実験にもとづき、改良につぐ改良を重ねて生みだされたものである。
山本はこの報告でこれを「顕著なる効果を収め得た」と言い、「ここに至る指導者並びに当業者の苦心は、けだし、察するに余りあるものなり」とも述べている。
このほか、腰掛式削り法を工夫して乾燥と削装の二操作は、他に比べても誇れるまでになったのだが、その後の工程、特に「かびとり仕上げ法」の研究が今後に残された課題となった。
これが大正10年当時における枕崎の実状である。
枕崎の沢山の女性鰹節行商人
「全国水産商家事情」(大正11年出版)による本県各鰹節産地の「著名荷主」は、次表のとおりである。
著名荷主とは、鹿児島市の場合は商人が製造を兼ねていたようだが、そのほかは有力な生産者を指している。
表中海産物とか塩干魚などと併記されているのは、鰹節と両種を荷送りしていた業者である。
この表によれば、大きな産地は、1、東南方村、西南方村、を主力とする川辺郡、2、屋久島、3、焼内村を中心とする大島郡の6か村、の3地区に集中している。さかのぼって江戸時代と比べても、あまり変わりはない。
なお、鰹節関係の問屋数は下のとおりである。
鹿児島市-8名、山川港-5名、上屋久村-1名。
枕崎、坊に荷主が1人もみられないが、これは、直接、鹿児島市や大都市の問屋と取引を行っていたからであろう。
枕崎の場合は、明治44年の調査では、421人という沢山の販売人がいた。
これらの人々の大部分は、女性の行商人だった。
その理由は、明治28年7月24日の暴風により、一瞬にして、枕崎(当時、東南
方村)だけでも、411人という出漁中の漁夫が犠牲となった。その未亡人たちが、明日の生計のために、悲痛のどん底から雄々しくも、「かつお節行商人」として立ち上がったのである。
そして、県内から宮崎、熊本両県までも売り歩いた。
そのため、「さつまぶし」は、田舎のすみずみにまで行きわたり、その声価を広げ、「折り紙」を付けたのであった。
従って、その取扱高が大量なものだったと書いてある。
大正11年度市郡別著名荷主数
郡市 | 村名 | 荷扱い品 | 人数 | 大正5年受賞人数 |
鹿児島 | 海産物 鰹節 | 5 | ||
揖宿 | 山川村 | 同 | 5 | 1 |
川辺 | 東南方村 枕崎 | 同 鰹節 | 2 26 | 31 |
同 西鹿篭 | 同 | 8 | ||
西南方 | 同 | 12 | 17 | |
東加世田 | 同 | 1 | 2 | |
西加世田 | 同 | 11 | 2 | |
薩摩 | 下コシキ村青瀬 | 同 塩乾魚 | 2 | |
肝属 熊毛 | 佐多村伊座敷 | 鮮塩魚 鰹節 | 5 | |
内ノ漁村南方 | 節類 塩乾魚 | 1 | ||
下屋久村栗生 | 鰹節 飛魚 | 28 | 40 | |
上屋久 | 記載ナシ | 36 | ||
大島 | 名瀬 | 鰹節 | 6 | 6 |
大和 | 同 | 4 | ||
焼内 | 同 | 19 | 10 | |
鎮西 | 同 | 5 | 7 | |
東方 | 同 | 3 |
枕崎に在った鰹節伝習所
大正10年、枕崎(枕崎倶楽部敷地内 現在の港町)に「鰹節伝習所」が設置され、改良節の製造技術の習得に多大な貢献をした。
これは、鹿児島県水産試験場業務日誌(大正7年より昭和25年まで但し、昭和14年度より昭和23年度までの記録なし)によれば、昭和6年ごろまで続いていたようである。
以下、設置、前後の鰹節製造の状況及び伝習生などについて、この業務誌より抜粋して記述したい。
1 薩摩節から改良節へ(大正7年業務誌より)
最近、鰹節の需要は、著しく増加し、また、時代の要求は、従来の薩摩節では満足せず、年を迫うに従って、改良節を希望する者が増加してきた。
そうして、従来の薩摩節、一番の消費地である信越地方(信濃と越後。今の長野県・新潟県地方)においてさえ、改良節を好むという新しい傾向を示し、駿河・遠州・伊豆及び土佐節が侵入しようとしている。
だから、従来の薩摩節を固守していた商人も、やはり、改良を叫ぶ状態となった。
鹿児島県の製法は、これに伴わず、多少、時代の要求に不適当な状態であったので、
節の改良は、只今、最大の急務となった。
だから、本試験場は、極力、改良節製造の普及に努力したのである。
このため、大正3年来、川辺郡枕崎に於て鰹節共同製造組合というものを組織させ、これと協定して改良製造試験を実施し、試験の効果を直ちに民間に採用するに便利を計った。
その結果、本試験場の成績に倣って、改良節製造を目的とする業者が出るようになり、実際上の活動をするようになった。
だから、ますます、改良節の指導改発に務め、一般に、その発達を促進しているところである。
鰹節製造試験は、大正3年以降の継続試験として、その趣旨・方法は前年と同じで、川辺郡枕崎鰹節共同組合と協定し、4月1日から大正8年3月まで、本試験場付属枕崎製造場を充用し施行した。
2 焼津より村松善八来る(大正10年)
鰹節製造試は、静岡・高知地方の製造方法の長所と既往試験で認められた方法とを参酌した「改良節」の生産を発達させようとして、従前から継続施行したものであって、大正10年4月1日より10月30日まで、枕崎本試験場付属製造場に於て、枕崎鰹船組合と共同施行をした。
そうして、従来、鹿児島県の漁獲鰹の処理は、氷蔵法が行われず、沖煮をして帰港する場合があって、製造品原料を得るのに困難があったが、本年、枕崎に製氷会社が設立され、氷蔵運搬が普及したのである。
このため、すべて、沖煮を廃止し陸上製造に変わったので、共同製造試験も成るべく多量の生産をなし、節製造事業者が出るようにと、その動機を作ろうとして、静岡県焼津町製造家、「村松善八」外2名をも参加させて、多量製造に重きを置いて試験に着手したのである。
製造は4、5月は多量であり、その大部分は、荒節のまま、移出し、6月以降の製品は、仕上品として販売をした。
期間中の製造回数は80回で、供用原料は、16,014貫であって、製品は、方節、3,747貫、仕上節191貫を得た。
荒節の移出先は、焼津町であり、同地で仕上げ、各地に販売せられ、仕上節は、東京・大阪。名古屋市に売却した。
3 静岡より教師、34名を招く(大正14年)
鹿児島県に漁獲される鰹は、脂肪の含有量が節製造に適し、周年、品質が優良である。
これは、他県にその比を見ないのであって、広く市場にその価値を認められている所である。
しかし、その製造加工に至っては、粗雑にして、天恵的に有する原料の真価を空しくするのみならず、市価に与える所の損失が少なくない。
だから、本場は、永年、これに改良の急なる叫び、製造の改革をしようとしたが、その根本となる製造は、他県とその趣を異にするがために、この改善は、一朝一夕の業ではなく、幾多の曲折、幾多の試験を積み、その実績を挙げるといっても、旧慣は容易に脱し難く、難事中の難事であったが、近年にな
って、漸次、その効果の大きいことを悟るようになった。
そうして、本場の指揮を仰ぎ製造の根本である製造所の改築・諸用具の完成は、年を追って改善され、今や、製造の設備は全国にその例を見ない程までに、統一せられ、大正13年以降、漸く薩摩節は、一般に旧態を脱する域に進んだ。
そこで、本年度(大正14年)は、川辺郡西南方村、坊泊は、全部、本場の指示により、静岡県より熟練なる職工、23名を雇い入れ、改良を計り、大いにその実績を挙げた。
続いて、本年、枕崎に於ても、同じく静岡県より、34名の実業教師を招き、本場と協力し極力製造の改良に勉めたのである。
枕崎では、更に一歩を進めて、多年の懸案であった漁業と製造の兼営組織を分離し、専心、鰹節の改良に尽くす事となり、8月1日からこれの実施を断行した。
だから、本場は、これの指導に全力を注ぐと共に、また、前年来、続行の煮熟試験を実施し、なお、改良製造に適する技術者の養成に勉め、伝習生を収容し教養することとし、4月1日より7月末まで、4か月間、川辺郡枕崎町付属製造所に於て施行した。
鰹節製造伝習状況
鹿児島県産鰹は、肉質優良にして、多脂に失せず、寡脂に陥らず、節として好適のものが多く漁獲せられ、生産年額550万円を越え、全国の王座を占めたのであるが、在来、産する薩摩節は多くは一番徴
着生を限度として、出荷せられる慣習上、加工精致を欠けるので、本場は、早くから、これの改善が急務であることを認め、優良な駿遠節の長所を取り入れ、年々、静岡県から多数の製造職工を採用したのである。
その結果、枕崎・山川等に雇用された職工は、100名を越えるに至り、製品も著しく改善せられ、東京市場でも、改良薩摩節の声価も、非常に向上し、駿遠節に比較しても遜色のない程に至った。
そこで、本場は、地方の子弟に製造技術を習得させ、ますます、薩摩節の改善を促そうとし、前年来、技術者の養成に努め、本年も4月15日より8月15日まで、満4か月にわたって、講習生を募り、民間工場、4か所を選び、各、9名ずつを配置し、静岡県焼津町より招いた職工を実技指導者とし、生切り・煮熟・倍乾の製造諸工程について、修練させ、最後の1か月間は、本場付属枕崎鰹節伝習所に収容し、削り作業の熟達修練に努めたのである。