枕崎水産加工業協同組合  森弥兵衛 鹿籠に伝える

枕崎水産加工業協同組合

Makurazaki marine products processing industries cooperative.

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森弥兵衞 鹿籠に伝える

鰹節の食品価値を高め盤石にした功労者

森弥兵衛  江戸において、カツオ漁法と鰹節製法を全図の主要産地に伝えたのは、時代も違えば相互の関連もないが、期せずして紀州印南浦の3人の漁民であった。彼等の創始努力がやがて実を結んで、土佐、薩摩、伊豆は、天下に名だたる鰹節の名産地となるのである。
カツオ漁業にはおよそ恵まれない印南浦が、3人もの偉大な功労者を生んだのは驚異だが、その根底には海を愛して勇敢に航海に立ち向かう、紀州海人の伝統的資質と、カツオ漁業を最大の生業としてきた印南漁民が、潮岬出漁により他浦漁民との交流の中から生み出した、優秀な鰹節製法が存在したからであって、必ずしも不思議ではないのである。

 江戸初期には初代甚太郎の土佐カツオ漁業開発があり、江戸後期には与市による伊豆、安房への鰹節改良法の伝授が行われ、その中間に当たる宝永年間には、森弥兵衛によって鹿籠(枕崎)の鰹節製造が創始された。与市は、独力で東国へ伝えた功績が高く評価される。また甚太郎、弥兵衛の2人は、それぞれ土佐藩、薩摩藩という大藩をバックに持つとはいうものの、中世末以来知られた鰹節の食品価値をより一層高め、磐石のものとした点で功績は絶大である。というのは、彼等は単に土佐節、薩摩節の名声を高めただけでなく、焙乾、カビ付けを含めた、現在の鰹節により近い優良品を市場に提供して、食味の世界に鰹節の旨味のすばらしさを充分に知らしめるきっかけを作った点で、高く評価されるからである。

  印南カツオ船は、それぞれに船団を組んで出漁しているから、3人は、どの漁船団かに所属していたはずである。出自の最も明らかなのは甚太郎で、有力な船主の角屋一族であり、2代目甚太郎については、死亡年月と位牌まで印南の印定寺に残されている。経歴のほとんどわかっていないのは与市で、幼名が善五郎であるところから、善の字を冠する人の多い石橋屋系統ではないかとの見方がある(要海正夫氏説)。
 弥兵衛は、この点でも2人の中間にあり、与市ほど身許不明ではないが、甚太郎ほどはっきりもしていない。3人の中でただ1人、森の姓を持つところから、先祖は由緒ある家柄だと推定され、印南浦に江戸時代から続く森家3軒につながるとみて間違いなかろう。森家は、浦の有力な船団主だった中村屋、戎屋とは深い縁戚関係にある。森3家のうち、安政3年に森若兵衛の子として生まれた徳太郎は、明治22年~大正11年に町長を7期、明治27年~大正4年に県議会議員を5期それぞれに勤めたほか、大正4年には県会議長にも選ばれている名望家である(印南の郷土史家、要海正夫氏調べ)。明治初年当時、このような顕職に就ける人は、江戸時代から代々庄屋格の家柄の出身であると見てまず間違いあるまい。
また江戸時代に庄屋株を得たほどの家は、それ以前に郷土、土豪だった場合が多い。森弥兵衛家は、徳太郎に明らかなように、その先祖までたずねれば有力な武士、土豪の家柄だったと見られる。
 これについて要海氏は、森家の昔の家の位置から、御仕入所役人であったことは間違いないと断言される。筋向いにあった戎屋(同族)は、要害城主の納戸方(金融)を勤めた家柄で、元禄年間には印南中村の庄屋を勤めている。また印南祭の由緒や、カツオ船の有力船主等を檀徒に持つ名利、印定寺開山由緒など、印南の事故来歴を書き留めた「印南中村覚え書」は、もと森家の所有だった事実からしても、森家が有姓の旧家であると推察できる。

森弥兵衛  戦国時代末期にこの村に築城された要害城の城主、湯川右衛門太夫は、当時紀伊半島西岸の有田、日高、牟宴の3都下に勢力を張っていた湯川長治の一族である。右衛門太夫は築城と共に港の近くに住吉神を勧請し、その周り一帯に樺を植えたので、そのあたりを森と呼び慣わすようになった。要海氏によれば、森氏は住吉神の勧請に何らかの関係があって、この姓を賜ったもので、湯川氏の家臣だという。
住吉神は、漁業、航海の神として、紀伊半島沿岸の浦々で信仰の対象とされ、カツオ浦でも示巳られている例が多い。湯川氏が住吉神を勧請したのは、すでに戦国の昔からこの浦でカツオ漁業が行われていたから、その繁栄を願ったのかも知れないが、水軍守護の願いが最大の狙いであった。神功皇后の三韓遠征に際し、住吉三神が大きな役割を果たした神話はよく知られている。森の姓が住吉の森に関係するという要海氏の説が裏付けられるなら、森氏が湯川水軍で一定の役割を果たしていたとの説は真実味を増してくる。
 天正13年(1585)、羽柴秀吉の10万の大軍による紀伊攻めは、僅か3千の軍兵を擁する湯川氏のとうてい敵するところではなかった。
一旦は頑強に抵抗したが、間もなく降服を余儀なくさせられた。
が、城主湯川直春は好計を以て殺され、要害城の城兵も四散した。
森家の先祖も、このとき印南を退転したとみられる。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦後、浅野氏が紀伊国嶺主となったころには、印南のカツオ漁船団は潮岬へ盛んに出漁していたことは、潮御崎神社に残された文書により明らかで、それがかつての湯川水軍と無関係だとはいい切れない。
昭和初期に印南漁業組合長だった、大野熊吉氏が、印南のカツオ漁業に関する言い伝えを集めた「覚え書」がある。
これによれば、要害城落城が大きなきっかけとなり、文禄慶長のころ、印南の「大渡海船」が、日向方面へカツオ漁に出かけたとの古い伝承があるとのことである。
上の記録と伝承の示すところは、年代的に大差はない。
落城後、一時身を隠していた湯川水軍の落武者の中からは、武士を捨てて印南に戻って土豪となり、かつての軍用船だった、小早、関船等をカツオ船や鰹節輸送船に転用し、旧家臣等を舟子に仕立てて、カツオ船主に成り切った者たちが現れたのであった。
以上は森家を要害城主の家来と見なす要海氏の説を基とした推論である。たとえ要害城との関係を抜きにしたとしても、印南浦の有力なカツオ船団主である2軒の家と深い関係にあったことと、苗字を持つ庄屋クラスの家柄だったことは確実である。
 「大野氏覚書」によれば、中村屋の祖先、治(次)郎右衛門は、日向で鰹旅漁を始めた江戸初期から、鰹節を製造した上で、大船を使って京坂地方へ輸送した人だという。
中村屋の隆盛は、出漁先が元和年間~慶安年間になり土佐に変わってからも続き、元禄年間には中村屋市郎兵衛が印定寺に今も残る観世音堂を建立している。
その中に極彩色の宮殿(仏壇)を寄進したのが、同じく有力な船団主であり、森家の関わりの深い戎屋久兵衛である。
仏壇の中には、当時のカツオ漁船主としても最有力だった2人の檀徒(中村屋、戎屋)が寄進した旨を記した位牌が安置され、往年の栄華の有様を偲ばせてくれている。
 中村屋本家は、市郎兵衛の子、次郎右衛門(襲名)を最後として、名跡は途絶えてしまう。その年代を勘案した場合に、宝永4年(1707)の大地震、大津波によって、一家全滅の悲運に見舞われたものとの推察が成り立つ。
その中村屋の栄光と滅亡は、以下に記すとおり森弥兵衛の鹿龍移住と無関係ではない。
 中村屋は、大阪へ向けて鰹節を輸送していたのだから、当然に大阪の塩干物鰹節問屋と親交を結んだはずである。戎屋船団に属する船主だったと見られる森弥兵衛は、製造に熱達すると同時に中村屋の縁で大阪の塩干物鰹節問屋衆にその名を知られたことであろう。しかも枕崎への鰹節製法の伝授者となったほどだから、その製造技能の優れた人であることも知られていたに違いない。
薩摩藩が、印南浦の災害を機会に鰹節問屋に依頼して技術者を招いた時、弥兵衛が選ばれたのは偶然ではないのである。
これより先、元禄初年前後にはカビ付け節が土佐に生まれていたから、宝永4年(1707)に移住した弥兵衛が、カビ付けまで含めた新製法を伝えたものとみてよい。
大阪にある薩摩藩の蔵屋敷は土佐堀の南岸にあり、長堀に画する土佐藩の蔵屋敷の近くに位置し、それぞれのお出入りの塩干物鰹節問屋を抱えてもいたから、これによって土佐節新製品の情報は、薩摩藩に容易に伝わったに違いない。しかし土佐藩は製法を秘密にしており、その壁を破ることは不可能であった。
 以下は推測であるが、薩摩藩もしくはその依頼を受けた鰹節問屋は、大阪へ土佐節を運んでいた中村屋に着眼し、製法の伝授を依頼したけれども、中村屋としても印南浦の秘法厳守の錠を破ることはできない。
ところが折りよくと言おうか、宝永4年の大地震、大津波に襲われて、印南浦は壊滅的打撃を受けた。頼みにしていた中村屋本家の滅亡は大きな痛手だったが、この機を逃さず森弥兵衛を選び、移住を条件にして、技術指導の承諾を得た。彼としてもおそらく津波によって係累の多くが死亡するような災厄に遭っており、故郷へなんらかの未練を残さなかったのであろう。
紀州蕃もまた、未曽有の災厄に苦しむ浦人に対して、厳しく束縛できなかったのではないか。藩の諒解を得られたか、密出国か、ともかく彼は鹿寵へ渡り、温かく迎えられたのである。